カートをみる ご利用案内 ご意見・お問い合わせ サイトマップ

戦国武将グッズ【バサラ】にようこそ!

北条綱成・武田信玄

八幡の旗印
戦国奇談 武田信玄
 

 北条綱成 永正12年(1515)〜天正15(1587)
  [1542年まで福島(くしま)姓]
  幼名    勝千代
  仮名    孫九郎
  諱      綱成
  官途名   左衛門大夫
  受領名   上総介
  法号    道感
 武田信玄 大永元年(1521)〜元亀4年(1573)
  幼名    太郎
  諱     
晴信
  官途名   大膳大夫
  受領名   信濃守
  法号    信玄

 
戦国時代の武士にとって「旗」という物は、我々が思うより大切なものであった。

 天正13年(1585)下野国において、北条勢と佐竹・宇都宮等、北関東諸勢が戦った。 この時、北条方の岡部権大夫という武士が、佐竹勢と戦い首級一つを上げ、自陣に引き返す途中、背中の旗指物が無くなっているのに気がついた。 すると権大夫は、敵陣にとって返し 「我こそは下総の国の住人、岡部権大夫なり。 ただいま組み打ちにて旗指物を落とし候。 もし拾いたる者あれば、この首いまだ実検入れざれば、この場で旗と取換え仕らん。」 と呼びかけた。
 
 すると、佐竹勢の中から一人の男が歩み出て 「我こそは河中喜平次、その落としたる旗、この旗に候」 と、白地に猪を描いた一本の旗を掲げた。 旗を見た権大夫は、「たしかに、その旗に候」 と首を掲げて喜平次に向かって歩き出した。 喜平次もまた旗を掲げて、権大夫に向かって歩き出した。 そして、戦場の真ん中、敵味方が見守る中、首と旗を交換した。 この時権大夫は、旗を背に差してもらうため、敵である喜平次に背を向けた。 一瞬見守っていた者の間に緊張が走った。 しかし、喜平次は、何の躊躇もなく旗を背に差してやった。 つまり、己の旗指物とは命がけでとった首級と同等以上の価値があったという事であろう。 

 戦国武将の旗印といえば、武田信玄の「風林火山」、上杉謙信の「毘」、あるいは、織田信長の「永楽銭」など、有名なものがあるが、北条綱成の「八幡」の旗もまた有名である。

 北条綱成は、今川家の武将、福島(くしま)正成の子として生まれたが、父が武田との戦で戦死すると、家臣に伴われ、北条家二代当主、北条氏綱を頼って小田原にやってきた。 7歳の時であった。 (綱成の父については、北条家の侍大将、伊勢九郎(福島九郎)という説もある。)

 福島勝千代(後の綱成)は、氏綱に小姓として仕え、長じては武勇に優れた若者に成長した。 氏綱は、この若者に惚れ込み、己の「綱」の一字を与え「福島綱成」と名乗らせ、自分の娘と結婚させた。そして、相模国玉縄城に、城主北条為昌を補佐する為に派遣した。 為昌は、氏綱の次男で綱成より5歳年下であったが、23歳の若さで亡くなってしまった。 為昌の死後、綱成は為昌の養子として、北条一門に迎え入れられ、玉縄城主・北条綱成となった。 氏綱の綱成に対する、並々ならぬ、期待が見て取れる。 28歳になっていた綱成は、この期待に十分答えるだけの力量を持っていた。 同い年の、北条家三代当主、北条氏康と共に関東の地で戦いに明け暮れ、数々の武功をあげた。 上総・下総・武蔵と、戦いに赴く綱成の戦陣には、朽葉色の練絹に「八幡」と墨書された旗印が誇らしげに掲げられていた。 綱成隊は、この旗を押したて「勝った! 勝った!」と叫びながら、敵陣に真っ先に切り込んでいった。 綱成は、この旗にちなみ「地黄八幡」と畏怖され、玉縄衆は、北条最強部隊と、成っていった。

 永禄11年(1568)12月 甲斐の武田信玄は、14年前に結ばれた、甲・駿・相の三国同盟を破棄して、駿河の今川氏真を攻めた。 これにより、武田と北条は敵対関係となり、三年間に亘り駿河国東部で、一進一退の攻防を繰り広げることとなる。 この事態に対するため北条氏康は、北条綱成を、駿河国駿東郡深沢城に配した。 綱成53歳の時である。 

 元亀2年(1571)1月 信玄は、深沢城を囲んだ。簡単には落とせないと見た信玄は、一通の矢文を城内に射こんだ。 「深沢矢文」といわれるもので、駿河侵攻の正当性を説き、長年の甲斐と相模の関係を語り、甲相対決は自分に理が有りと開城を迫り、あるいは小田原に援軍を求めよ、そして主力決戦を望む、などと書かれていたものである。 しかし、綱成は、これを無視し籠城を続けた。 これに対し信玄は、金堀衆に坑道を掘らせ、土塁を崩し綱成を追い詰めていった。 さすがの綱成も、もはやこれ以上は利なしと城を開け小田原に去った。

 綱成が去ったあと、城内に入った武田の兵が、置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。 しかし信玄は「左衛門大夫(綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。 あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田信尹(真田幸隆四男・昌幸 弟)に、「左衛門大夫の武勇にあやかれ」と旗を下賜した。 後に、この事を伝え聞いた綱成は、「信玄の言葉で、我が恥辱は雪がれた」と悦んだ。

 これとよく似た話がもうひとつ伝わっている。 永禄12年(1569)6月 武田信玄は駿河国三島に出陣して、北条氏康と対峙した。対陣中、両軍は風雨に見舞われ、武田の陣では、川の水が流れ込み大騒ぎとなった。 さらに、北条の陣から北条方の興国寺城に向かった兵を、敵襲と勘違いした為、大混乱に陥った。 信玄は仕方なく兵を引いた。 その後、興国寺城の兵が、武田軍の「八幡大菩薩」の旗が落ちているのを見つけ、小田原の氏康に届けた。 氏康は、この旗を九島伊賀守(北条綱房・綱成実弟)に与えた。 このことは、「信玄一世一代の不覚」といわれた。

 大名や侍大将にとって、旗を奪われるということは、「恥辱」であり、「一世一代の不覚」という事になるのだろう。 「地黄八幡」の旗は、現在、長野市松代町の「真田宝物館」にあるが、「八幡大菩薩」の旗の行方は分からない。

  
      
 話は変わるが、武田信玄が永禄11年(1568)12月 駿河に侵攻してから、元亀2年(1571)12月 北条家四代当主 北条氏政と甲相同盟を結ぶまでの3年間、駿河国東部で武田と北条は戦いを繰り広げたが、これは、信玄にとって予定外ではなかったか。 氏政は、信玄の婿であり、氏政の嫡男氏直は孫である。 さらに14年間に及ぶ同盟関係の間、上杉謙信・関東諸将に対する北条を助け、何度も関東に出陣している。 北条氏康は、落日の今川より武田を選ぶ、と思っていたのではないだろうか。 しかし氏康は、今川を助け信玄と対峙し、駿河侵攻について弁明に来た、武田の使者、寺島甫庵を牢にぶち込んでしまった。 さらに、上杉謙信と越相同盟を結んだ。 信玄の「小田原侵攻」や「深沢矢文」は、焦りや苛立ちのようにも思える。 元亀2年(1571)10月 北条氏康が亡くなり氏政が実権を握ってようやく12月甲相同盟が結ばれた。 翌、元亀3年(1572)9月、信玄は本格的に西上作戦を開始したが、残された時間はわずかしかなっかた。 12月、三方ヶ原で徳川家康を一蹴したが、その後すぐに発病して翌年元亀4年(1573)4月、
伊奈郡駒場で52年の生涯を閉じた。 もし北条との3年間がなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれない。 

(文/葛城 涼介)


武田信玄マグカップ  

信玄MC1   

hachiman