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馬場信春・本多忠勝

無傷の勇将
戦国奇談 本多忠勝
 

 馬場信春 1515(永正12)〜1575(天正3)
  諱     景政 (教来石)
         信房・信春 (馬場)
  官途名  民部少輔
  受領名  美濃守
 本多忠勝 1548(天文17)〜1610(慶長15)
  幼名    鍋之助
  仮名    平八郎
  諱     忠勝
  官途名  中務大輔


 馬場信春は、武田信虎・信玄・勝頼の3代に仕えた戦国武将である。 1531年(享禄4)17歳で初陣を飾り、戦場往来44年、数々の戦で戦功を上げたが、身に一つの傷も負わなかったという勇将である。

 1564年(永禄7)つわもの揃いの武田家臣団の中でも、武勇の誉れも高く「鬼美濃」あるいは、「夜叉美濃」と、畏怖された原 美濃守 虎胤が亡くなった。 翌年、信春は信玄より「鬼美濃の武功にあやかれ」と言われ、馬場 美濃守 信春を名乗るようになり、その後、「不死身の鬼美濃」と異名をとった。

 馬場信春は、武勇だけの人ではない。 築城にも長け、器量も一流といわれた。 1568年(永禄11)武田軍が、駿河に侵攻した際、信玄が今川館の財宝が失われるのを惜しみ運び出させていた所に信春が駆けつけ、運び出した財宝を、すべて火中に投げ入れ燃やしてしまった。 そして、信玄に対し「合戦の最中に、敵の財宝を奪うなど後世の物笑いになる」と、苦言を呈した。 これには信玄も「信春の申すこと、もっともである」と、納得したという。

 馬場信春は「一国の太守になれる器量人」と評され、長篠の戦の時は「馬場美濃守、手前の働き比類なし」と、いわれた。 戦場往来44年、戦において初めて傷を負った時が、信春にとって最後の戦となった。 享年61、設楽ヶ原の戦場に命を散らした。

 
 徳川家臣団の中にも無傷の勇将がいる。 本多忠勝、彼もまた、13歳の初陣以来57度の戦いに臨み、傷一つ負うことがなかった、といわれる。 1560年(永禄3)桶狭間の戦いの前哨戦、大高城兵糧入れの初陣以来、三河平定戦、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手、関ヶ原と、つねに家康と共に戦場を駆けた。

 1572年(元亀3)三方ヶ原の前哨戦、一言坂の戦いでは、殿軍を務め、その見事な采配から「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と、武田軍から評された。 三方ヶ原の戦いの時も敗れたりとはいえ、信玄に「家康公は、海道一たぐいまれなる名将と評判が高い。それに、本多平八は若輩であるが、これもまた、ただものではない。」と、言わしめた。

 他にも本多忠勝を、賞賛する声はある。 織田信長は、「日本の張飛」、「花実兼備の勇士」と評し、豊臣秀吉は、「日本第一、古今独歩の勇士」、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西一対の武将」と評した。

 1600(慶長5)関ヶ原の後、真田昌幸、信繁父子の処遇をめぐり家康と対立した時、娘婿の真田信幸と共に父子の助命嘆願をしたが、家康は何度も煮え湯を飲まされた、昌幸をなかなか許さなかった。 すると忠勝は「ならば殿と一戦つかまつる」と啖呵をきった。 これには家康も首を縦に振るしかなかった。 忠勝も馬場信春同様主君に対しても、直言できる男であった。

 
 「無傷の勇将」、戦国時代の真っ只中では、総大将でさえ矢弾の洗礼をうけ、自ら太刀をとることも珍しくなかった。 隣国の北条氏康など関東を代表する大大名でありながら、身に七ヶ所・顔に二ヶ所の向こう傷があったと伝えられる。 その中で戦場を駆け回る侍大将たる二人が傷一つ負わなかったのは奇跡に近いであろう。 武田の元祖「鬼美濃」原虎胤は、合戦に臨むこと三十八度、全身に五十三ヶ所の傷があったといわれ、本多忠勝の同僚、井伊直政も、全身傷だらけであったと伝わる。 そもそも二人は最初から侍大将ではない。 十代での初陣から戦場を駆けずり回り、自ら首を取り、武功を立て得た地位である。 まさに、戦国の勇将というにふさわしい男達である。

 馬場信春、本多忠勝、共に武勇に優れ一流の器量を持つ、智勇兼備、花
実兼備の武将である。 甲斐と三河、生まれた場所も、生まれた時も異なる二人であるが、よく似た二人である。

 そんな二人が出会うのは、やはり戦場であった。 三方ヶ原は、武田の圧勝であったが、本多忠勝25歳、武名を確実なものとした。 そして3年後の長篠の戦いは、織田・徳川の圧勝、馬場信春は61歳で生涯を閉じた。 無傷の勇将の遺伝子は、馬場信春から本多忠勝へと受け継がれた。

(文/葛城 涼介)

武田信玄マグカップ

信玄MC1