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足利義教・細川政元・織田信長

叡山炎上
戦国奇談 織田信長


足利義教
 応永元年(1394)〜嘉吉元年(1441)
 室町幕府第6代将軍
 法号   義圓
 諱     義宣・義教
細川政元 文正元年(1466)〜永正4年(1507)
 室町幕府管領
 幼名   聡明丸
 仮名   九郎
 諱     政元
 官途名  右京大夫
織田信長 天文3年(1534)〜天正10年(1582)
 幼名   吉法師
 仮名   三郎
 諱     信長
 受領名  上総介・尾張守
 官途名  弾正忠


 比叡山延暦寺、京の北東に位置し最澄が延暦7年(788年)この地に建立して以来、天台宗総本山として現在まで続いている。 しかし、中世以前におけて叡山は、現在とは異なる顔を持っていた。 天台宗総本山・国家鎮護の大道場として権威を持ち、僧兵という名の武力を持ち、荘園や利権からなる財力を持っていた。 政に不満があれば神輿を担ぎ出し、時の権力者たちに強訴して自分たちの要求を認めさせてきた。 平安時代に権勢を誇った白河上皇は 、自分の意にならぬものとして鴨川の水・双六の賽・そして山法師(延暦寺の僧兵)をあげている。 武家政権以降も並の大名以上に権力を持った叡山は、まことに厄介な存在であった。


 室町時代、この叡山を自らの支配下に置こうとする男が現れる。 室町幕府第6代将軍・足利義教である。 義教は将軍就任以前は出家していて義圓と名乗り、天台座主を務めたこともある。 叡山では、「天台開闢以来の逸材」とも言われていたが、還俗して将軍に就任すると将軍権威を高める為に敵対することとなる。 将軍に就いて5年目の永享5年(1433年)、ついに武力衝突を起こす。 一旦は停戦するも、翌年には関東公方・足利持氏と結託し義教を呪詛したとの報を受け、再び叡山に攻め入った。 義教は、叡山の総本堂である根本中堂に立てこもった僧侶たちに対しする攻撃継続を主張したが、有力大名の反対に合い再び和議となった。 しかし、これであきらめる義教ではなかった。 「罪を悔いて入洛すれば、所領を安堵する」と、叡山に対し触れを出し、これを信じて出頭してきた僧侶たちを捕らえて斬首した。 武力ではなく謀略によって攻めたのである。 この処置に怒った叡山側は、再び根本中堂に立てこもり激しく抗議したが、義教はこれを黙殺し自らの意志を押し通した。 根本中堂に立てこもった僧侶たちは、義教の態度に激昂しあるいは失望して、自ら火を放ち憤死した。 これにより最澄以来の伝統を誇った根本中堂は灰燼に帰したのである。 永享7年(1435年)2月のことである。 

 その後、義教は有力大名の相続問題に干渉して大名統制を謀り、長年の懸案であった幕府に反抗的な関東公方・足利持氏を永享の乱で討ち、結城氏朝が持氏の遺児、安王・春王を奉じて起こした結城合戦にも勝利した。 しかし、嘉吉元年(1441)6月24日、結城合戦の戦勝祝いに招かれた赤松邸において、赤松満祐に暗殺された。 享年48才。 「天魔王」と呼ばれた男のあっけない最後であった。 


 根本中堂が焼け落ちてから64年後、叡山は再び戦火に遭うこととなる。 義教のときは、結果的な炎上であったが、今度は確信犯的な焼き討ちである。 男の名は細川政元、室町幕府管領であった。 政元は、応仁の乱から戦国時代に移り変わる時代に生きて、 戦国時代の扉を開く鍵の1つを握っていた男である。 延徳元年(1489年)、9代将軍・足利義尚が近江鈎の陣中で25歳の若さで病没すると、政元は次期将軍に堀越公方・足利政知(8代将軍・義政の弟)の子、香厳院清晃の擁立に動いたが、10代将軍に就任したのは足利義視(同じく義政の弟)の子、義材であった。 その後、政元は幕府との距離を置くが、幕府の重鎮であった元将軍・義政、将軍の父・義視が亡くなると、明応2年(1493年)将軍・義材が河内に出陣している間に京において香厳院清晃(還俗して足利義遐、後に義高・義澄と改名)を11代将軍に擁立した。 義材は、一旦は捕らえられ京の竜安寺に幽閉されたが、後に越中に逃れた。 明応8年(1499年)7月、越中に逃れていた足利義尹(義材が改名)が越前に移り上洛の機会を窺っており、さらに叡山が呼応して兵を挙げるとの報に接し、政元は先手を打って叡山に攻め入った。 政元は義教のときとは違い根本中堂・大講堂・法華堂などを躊躇なく焼き払い叡山を制圧した。 

 政元は、将軍を傀儡とすることで、「半将軍」と呼ばれるまでの幕府最大の権力者となり、朝廷に対しても、後柏原天皇の即位式の費用を求められた時、「天皇は、即位式を行わなくても天皇である」と言って、不遜な態度で拒否した。 その一方で政元は愛宕の法、飯縄の法に傾倒し、「出家の如く、山伏の如し」と言われ、女人を近づけなかった為、嫁も取らず、子も生さなかった。 そして、永正4年(1507)6月23日、養子の澄之、澄元の間で起きた家督争いに巻き込まれ、家臣の手により殺害された。 享年42才。


 3度目は72年後に起きた、有名な織田信長の焼き討ちである。 元亀2年(1571年)9月、信長は敵対していた浅井・朝倉に味方している叡山に対して、中立を保つように勧告をしたが、従わぬと見ると3万の兵で総攻撃を開始した。 信長勢は、まずは坂本を焼き払い叡山に攻めあがった。 武器を持って抵抗する山法師を一蹴して根本中堂をはじめ多くの堂舎を焼き尽くした。

 その後、浅井、朝倉を滅ぼし、長篠の戦いでは、武田勝頼を一蹴。 宿敵・本願寺を大坂から退去させ、天正10年には、武田家を滅ぼした。 天下布武へと着実に歩を進めていたが、天正10年(1582)6月2日、京・本能寺において家臣・明智光秀の謀反にて、炎の中で49年の生涯を閉じた。


 3人の共通点は、京の支配者であり日本一の権力者であり、宗教的権威を恐れぬ精神を持っていたことであろう。 そして、3人共、家臣の手によって殺害された。 「日本の独裁者は、殺される」というが、そういう意味では3人は独裁者だったのであろう。 ちなみに、3人が殺されたのは共に旧暦の6月であり、それは延暦寺の開基である伝教大師・最澄の亡くなった月であるのは奇妙な偶然である。

 室町の時代が、応仁の乱そして戦国時代へと移る中、権力もまた移っていった。 室町将軍から幕府管領へ、そして戦国大名へと権力の座にすわる者が替わっていった。 義教は自身が将軍であったが、管領・政元は将軍を傀儡とすることで権力を握り、信長は将軍を追放し室町時代を終わらせた。 室町という時代の一面を象徴した出来事であろう。

(文/葛城涼介) 


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