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竹中半兵衛・福島正則・黒田長政

一の谷兜物語
戦国奇談 黒田長政

 竹中重治 天文13年(1544)〜天正7年(1579)
  仮名   半兵衛
  諱     重虎・重治

 福島正則 永禄4年(1561)〜寛永元年(1624)
  幼名   市松
  諱     正則
  官途名  左衛門大夫・左近衛権少将

 黒田長政 永禄11年(1568)〜元和9年(1623)
  幼名   松寿丸
  仮名   吉兵衛
  諱     長政
  受領名  甲斐守・筑前守


 永禄7年(1564)2月6日、美濃国主・斉藤龍興の居城で難攻不落といわれた稲葉山城が、18人の男たちによって乗っ取られた。 男たちを率いたのは竹中重虎、後の世で名軍師と謳われることとなる竹中半兵衛重治、21歳のときである。

 竹中半兵衛は、稲葉山城に出仕していた弟の久作(竹中重矩)に仮病を使わせ、その看病と称して家臣16人を従え白昼堂々城内へ乗り込み、斉藤龍興の寵臣・斎藤飛騨守他5名を討ち取り城を占拠した。 乗っ取りが成功すると、城外に待機していた岳父・安藤伊賀守守就に合図を送り、安藤勢・竹中勢、兵2000で城下を制した。 城を取られた龍興は城外へ脱出して鵜飼山城へ逃れた。 竹中半兵衛が歴史の表舞台に躍り出た瞬間である。

 この竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りは、主君斉藤龍興を諌める為とか、斉藤飛騨守から侮辱を受けた為とか言われているが、城に乗り込んだ直後に飛騨守は討ち取っているし、城を乗っ取った後、半年にわたり占拠しつづけた事を見ると、半兵衛は龍興に代わり稲葉山城だけでなく美濃国をも乗っ取ろうとしていた可能性もある。 なんしろ美濃はわずか十数年前に斉藤道三が国主・土岐頼芸を追い出し国を奪った経緯がある。 戦国の理どおり下剋上を受け入れる下地が美濃にはあった。

 しかし、実際は半年間の占拠の後、竹中半兵衛は稲葉山城を斉藤龍興に返却して近江国に隠棲してしまった。 半年の間に美濃の情勢が半兵衛にとって有利に動かなかったのかもしれない。 城を占拠しているときに、尾張国の織田信長から「城を明け渡せば美濃半国を与える」との申し入れがあったが、半兵衛はこれを断っている。 信長の言葉を信用しなかったのか、あるいは他国の介入を望まなかったのかもしれない。 しかし、3年後、稲葉山城を落とし美濃国を平定したのが信長であった。

 竹中半兵衛がいつから織田信長に仕えたかははっきりしないが、信長が美濃を征した3年後の元亀元年(1570)には、出仕していたようである。 信長の家臣となった半兵衛は、寄騎として木下藤吉郎秀吉(後の羽柴秀吉)と行動を共にするようになる。 姉川の戦い・小谷城攻城戦・長篠の合戦、そして播磨国攻略へと秀吉を支え続けたが、三木城攻めの最中、天正7年(1579)6月13日、36年の短い生涯を閉じた。

 竹中半兵衛の死に際して遺品わけが行われた。 金の切り裂きの馬印は羽柴秀吉へ(秀吉の瓢箪の馬印の下に付く金の切り裂きは、この時からか)、虎御前の太刀は山内一豊へ(半兵衛と一豊は姻戚関係との説も)、采配は黒田長政へ(最初は黒田官兵衛か)、そして一の谷兜は福島正則に送られた。

 一の谷兜は、源平合戦で有名な一の谷を象った銀箔押しの兜である。 その兜を譲り受けた、福島正則は羽柴秀吉子飼の武将で、三木城攻めで初陣を飾ったばかりの18歳の若武者であった。 譜代の家臣を持たない秀吉にとって従兄弟の正則は、他の子飼の若者達にもまして特別期待をかけられていた。 正則も期待にこたえ武功を挙げていく。 賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の部将・拝郷五左衛門の首を取り5000石を賜り、その後も小牧・長久手、紀州攻めと、秀吉の快進撃に付き従い、天正15年(1587)の九州征伐の後には、伊予今治11万石を領することとなった。 なんと初陣からわずか9年である。

 戦国時時代とはいえ織田家の小者から関白まで上り詰めた豊臣秀吉。 その奇跡とも言える成り上がりに引っ張られて、多くの者たちが異例の大出世を遂げた。 福島正則は加藤清正と並んでその筆頭であろう。 正則は、文禄4年(1595)には、尾張・清洲城主として24万石を領した。

 この頃、文禄・慶長の役の最中であったが、黒田長政と福島正則の間で諍いが起こった。 しかし、帰国後2人は和解し、その証として互いの兜を交換した。 長政からは大水牛脇立兜が、正則からは竹中半兵衛の遺品・一の谷兜が送られた。 一の谷兜が長政の手に渡ったのも不思議な縁の巡り合わせであろう。 なぜなら長政は幼き頃、半兵衛にその命を救われているからだ。

 黒田長政は、黒田官兵衛孝高の嫡男として永禄11年(1568)に生まれた。 父・官兵衛は播磨国の御着城城主・小寺政職に仕えていたが、その後、畿内を征し中国地方に攻略の手を伸ばしてきた織田信長の実力を見抜き、「小寺家は織田信長に付くべき」と主張し、主の政職を説得した。 そして、天正5年(1577)信長の中国地方攻略が本格化すると、総大将の羽柴秀吉と、その旗下の竹中半兵衛がやって来た。 官兵衛は自らの居城である姫路城の本丸を提供し、秀吉の家臣がごとく働いた。 官兵衛の人生が大きく動き出していた。

 そんな中、翌年の天正6年(1578)11月、大きな事件が起こる。 摂津国の荒木村重が突如として織田信長に背き有岡城に立て篭もった。 黒田官兵衛は、村重を翻意させるべく単身有岡城に乗り込んだが、城内の地下牢に幽閉されてしまった。 城に入ったまま帰ってこない官兵衛を信長は寝返ったと決め付け、人質として長浜城にいる官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を羽柴秀吉に命じた。

 この命令に困惑する羽柴秀吉の窮地を引き受けたのが竹中半兵衛だった。 半兵衛は松寿丸を(長政)を菩提山城に匿うと、織田信長には城下で病死した少年の首を送った。 信長に対してこのような大胆な行動に出れたのは、会って間もないにもかかわらず、黒田官兵衛という男を一点の曇もなく信じていたからであろう。 しかし、半兵衛が再び官兵衛に会うことはなかった。 官兵衛が有岡城に囚われて半年後、半兵衛はこの世を去った。 有岡城が落城して官兵衛が地下牢から救出された時には、さらに半年が経っていた。

 竹中半兵衛によって命を救われた松寿丸は、その後黒田長政と名乗り、戦国武将としての道を歩み始める。 備中高松城攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州征伐と戦場を駆け、武功を挙げた。 そして、文禄・慶長の役の時に、恩人である竹中半兵衛の一の谷兜を手に入れた。 長政は、関ヶ原の戦いのとき、この兜をつけて出陣している。

 黒田家の竹中家に対する恩義は、深いものがあり、まずは、石餅の家紋を竹中家から譲り受けている。 次いで、関ヶ原の戦いのとき、竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)や竹中重利(半兵衛の従兄弟)が当初、西軍だったのを東軍に寝返らせて、決戦当日は黒田長政と重門は共に戦った。 その結果2人は戦後、所領を安堵されている。 さらに、半兵衛の孫の重次(重門の子)は、黒田家の家臣になっている。

 一の谷兜はその後黒田家に代々伝わり、現在は一の谷兜をつけた黒田長政の肖像画と共に、福岡市博物館蔵となっている。

(文/葛城 涼介)