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加藤清正・榊原康政・吉川広家

憧れの馬印 2
戦国奇談 加藤清正

榊原康政 天文17年(1548)〜慶長11年(1606)
 幼名    於亀
 仮名    小平太
 諱      康政
 官途名   式部大輔

吉川広家 永禄4年(1561)〜寛永2年(1625)
 幼名    才寿丸
 仮名    次郎五郎・又次郎
 諱      経言(経信)・広家
 官途名   蔵人頭・民部少輔

加藤清正 永禄5年(1562)〜慶長16年(1611)
 幼名    夜叉丸
 仮名    虎之助
 諱      清正
 官途名   主計頭
 受領名   肥後守

 文禄元年(1592)、豊臣秀吉は、明・朝鮮出兵の号令を発した。 文禄・慶長の役の始まりである。

 全国の諸将は兵を率いて、肥前・名護屋城へと、続々と集結してきた。 肥後半国・隈本城城主、加藤清正は、第2陣に属していたが、渡海する前に徳川家家臣・榊原康政を尋ね「式部大輔殿の馬印を、お借りしたい」と、懇願した。

 馬印とは、戦場において武将の傍らに立てられ、武将の所在を知らしめるものである。 総大将の馬印は戦場の後方に立ち味方の兵を鼓舞し、侍大将の馬印は共に戦場を駆け、率いる部隊をまとめ、その働きを総大将に知らせるものである。 いわば武将の分身ともいえる。

 その馬印を、加藤清正は借りたいと言ったのだ。 榊原康政はこの申し出を快諾した。 こうして康政と共に長年戦場を駆けてきた、金の桔梗笠の馬印は、海を渡ることとなった。 清正と共に朝鮮の地に渡った馬印は、康政の武功を背景に清正の率いる将兵の士気を鼓舞した。

 榊原康政は加藤清正より14歳年長である。 清正がまだ夜叉丸、あるいは虎之助と呼ばれていた頃より、数々の武功を挙げていた。 15歳の時より松平元康(徳川家康)に仕え、翌年三河一向一揆との戦いで初陣を飾り、元康より「康」の一字を賜り、康政と名乗るようになった。 そして、3人の与力を与えられたのを皮切りに、三河平定戦で活躍し、20歳の時には一手の大将になっていた。 その後も、対今川、対武田、あるいは姉川の戦いと、戦の日々がつづいた。 小牧・長久手の戦いの時には、武功もさることながら、羽柴秀吉を非難する檄文を草して、敵味方の陣にばら撒き秀吉を激怒させた。 この小牧・長久手の戦いには、清正も兵150を率いて出陣していたが、23歳のまだまだ駆け出しの戦国武将であった。

 加藤清正が、いつの頃から榊原康政に憧憬の念を抱いていたかわからないが、天正10年(1590)の秀吉の関東征伐の時には、清正から康政に帷子が贈られ、康政は関東の状況を知らせる書状を清正に送り、かなりの誼を結んでいる。

 文禄・慶長の役が終わり、日本に戻った清正は、馬印のお礼として「五倫書」を康政に贈った。 後に清正の娘、古屋は康政の3男で榊原家を継ぐこととなる榊原康勝に嫁いでいる。


 もう1つ、清正と文禄・慶長の役に絡んだ馬印の話が伝わっている。

 慶長の役のとき、浅野幸長・宍戸元続(毛利秀元・家臣)は、蔚山に前進基地として城を築いていた。 完成のあかつきには、加藤清正が在番として入城する予定であった。 しかし、完成に近づいた慶長2年12月22日、明・朝鮮の大軍が突如として押し寄せてきた。 幸長は籠城の手はずを整えると共に、西生浦倭城にいた清正に知らせを走らせた。

 清正は、知らせを受けると後方の釜山の本営に援軍を要請し、自らはわずかな手勢を率いて蔚山に向かい城に入った。 城を囲む明・朝鮮連合軍は5万7千という大軍であった。 対する籠城軍は約2千、圧倒的兵力差であった。 それに加え敵勢の突然の襲来で、兵糧も2日分しかなく、水の手も押さえられるという最悪の状況であった。

 戦いが始まり10日ほど経って、年が明け正月を迎えた。 援軍はいまだ現れず、城内はもはや限界に近く、清正も幸長も死を覚悟した。 正月3日落城寸前の蔚山倭城に、ついに援軍が現れた。 毛利秀元・鍋島直茂・黒田長政・蜂須賀家政・加藤嘉明・長宗我部元親・生駒一正、総勢2万。 蔚山郊外の丘に陣を張ったが、敵勢は約3倍、決して楽観できる状況ではなかった。 翌4日、明・朝鮮連合軍は、最後の総攻撃を城に仕掛けた。城方も最後の気力を振り絞り、必死に凌いだ。 援軍はこの様子を見て取り、敵の背後を突くため動き出した。 そのとき、毛利秀元の軍勢より、二引両の馬印を掲げた一軍が、真っ先に飛び出し敵軍に突入した。 その大将は、縦横無尽に敵勢をなぎ倒し、鬼神の如き働きをした。 その後、後続の軍が戦に加わり、明・朝鮮軍を敗走させた。

 戦いが終わり、この様子を城より見ていた清正は、「あの二引両の馬印の武将は誰か?」と、たずねると、吉川広家であることが分かった。 吉川広家は、吉川元春の3男で毛利元就の孫にあたる。 広家は、わずか10歳で自ら志願して初陣を飾ったり、この蔚山倭城の戦いのとき5万7千の軍に真っ先に切り込んでいったりと、父・元春、兄・元長に負けないぐらいの猛将ぶりであった。 さらに、小早川隆景亡き後の毛利家も吉川広家が居れば安泰と言われた。 そして後年、評価は分かれるが、関ヶ原において東軍に内通し、戦いの趨勢と毛利家の運命の鍵を握った。


 清正は、蔚山倭城の戦いの後、さっそく広家を招き、その戦ぶりを称え礼を述べた。 そして話の中で「貴殿の馬印は、遠目に見えずらく、勇将には似合わないので変えたほうが良いのではないか」と、問いかけると、広家は「それでは、主計頭殿(清正)の馬簾の馬印を賜りたい」と願い出た。 清正は、この申し出を喜び、馬印の使用を許した。 清正の馬印、銀の九本馬簾を、広家は、赤の十三馬簾(婆々羅)にして使用した。

 関ヶ原の戦いのとき、南宮山において毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親の前に立ちはだかったのが、この馬印である。

(文/葛城 涼介)