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蒲生氏郷・佐々成政・前田利家

憧れの馬印
戦国奇談 蒲生氏郷

 
蒲生氏郷 弘治2年(1556)〜文禄4年(1595)
  幼名   鶴千代
  仮名   忠三郎
  諱     教秀 賦秀 氏郷
  受領名 飛騨守
  官途名 左近衛少将
  洗礼名 レオン
佐々成政 天文5年(1536)?〜天正16(1588)
  仮名   内蔵助
  諱     成政
  受領名  陸奥守
前田利家 天文7年(1539)〜慶長4年(1599)
  幼名   犬千代
  仮名   又左衛門
  諱     利家
  受領名  筑前守
  官途名  左近衛権少将 右近衛権中将
        権中納言 権大納言


 蒲生氏郷といえば、利家びいきの武将として知られる。 

 文禄元年(1592)「文禄の役」が、始まると諸将が肥前名護屋に参集した。 その折、前田利家と徳川家康の家臣同士のいざこざから、両陣営が一触即発の事態になった。 蒲生氏郷は真っ先に前田陣営に駆けつけ、徳川陣営と対峙した。

 又ある時、諸大名との雑談中に、「豊臣秀吉の後継者は誰になるか」、との話題になった。 豊臣秀次や徳川家康の名が挙がるなか、蒲生氏郷は、前田利家の名を挙げ、「利家でなくば、自分だ」と、言ったという。

 蒲生氏郷は、前田利家の嫡男・利長とは織田信長の娘を介して相婿であり、仲も良かったと伝わる。 共に、利家譲りの鯰尾の冑をかぶり戦場を駆けた。 さらに、利家の次男・利政の室は氏郷の娘である。

 氏郷には、もう1人憧れていたと思われる武将がいた。 佐々成政である。

 天正18年(1590)豊臣秀吉は、関東の北条氏を討つことを決め、諸将に出陣を命じた。 蒲生氏郷は、秀吉の許に赴き、関東への出陣に際して、「いままで使用していた熊の毛皮の馬印に変えて、佐々成政の三階笠の馬印を用いたい」と願い出た。 秀吉は、「成政の三階笠は、天下に知られた馬印ゆえ、許すわけにはいかぬ」と、一旦は退けたが、氏郷は、なおも「我が武勇は、成政に劣ると言われるのですか」と、食い下がった。 秀吉は、仕方なく「成政の馬印を使用したくば、関東にて武功をたてよ」と、言い渡した。 「武功をたてよ」と、言われては、数千の兵を率いる身分になっても、先陣にて自ら槍を振るいたがる氏郷である、武功を立てられなければ、関東において討ち死にする覚悟を決めた。 氏郷は、密かに三階笠の馬印を作り、自らの影像を描かせ近江日野の菩提所に納めさせ、決死の覚悟で関東へ出陣した。

 
 氏郷は、弘治2年(1556)南近江を領する六角義賢の家臣、蒲生賢秀の嫡男として生まれた。 幼名は、鶴千代。

 永禄11年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛の途についた。 信長の前に南近江の六角義賢は逃亡、義賢の家臣であった蒲生賢秀は信長に降り、嫡男の鶴千代(後の氏郷)を人質として差し出した。 この時、鶴千代の前に現れたのが、日の出の勢いの織田信長と柴田勝家・丹羽長秀・木下秀吉ら、織田家の誇る武将たちである。 しかし、鶴千代の胸をときめかせたのは、信長の脇を固める馬廻り衆の精鋭集団、黒母衣・赤母衣衆であったのかもしれない。 その中でも、佐々成政は黒母衣衆筆頭、前田利家は赤母衣衆筆頭であったと伝わる。 2人は鶴千代をはじめ織田家の若き侍たちの憧れであったろう。 鶴千代13歳、利家30歳、成政33歳の時である。

 しかし、鶴千代は馬廻りではなく、別の道を歩むこととなる。 元服して、忠三郎教秀、のちに賦秀と名乗り、信長の娘・冬姫と婚姻して近江日野城へ戻ることを許された。 信長は賦秀の武将としての非凡なる才を見抜き、自らの婿としたのである。 その後、近江長光寺城に入った柴田勝家の与力として、父・賢秀と共にあまたの戦場を駆けることとなる。

 14歳、伊勢国の北畠攻めでの初陣を飾り、それ以後、越前・朝倉、近江・浅井、伊勢長島一向一揆と戦った。 柴田勝家が、越前国北ノ庄に移ってからは、織田信長の直属軍として、摂津、伊賀、そして、武田を討つために甲斐へと転戦を繰り返し、戦国武将としての道を邁進した。 一方、佐々成政・前田利家は馬廻り衆としての活躍が認められ不破光治と共に越前の内2郡を与えられ、越前北ノ庄城に入った勝家の与力として北陸方面の攻略に、そして畿内の戦いの応援へと戦場往来の日々を送る。 そして、佐々成政は越中、前田利家は能登を与えられ織田家の有力部将に成り上がっていた。 

 そして、運命の天正10年(1582)6月2日本能寺の変。 織田信長が、明智光秀の謀反に倒れ、その光秀を羽柴秀吉が討った。 その後、柴田勝家と羽柴秀吉が対立。 賦秀は秀吉に付いたが、もしかしたら勝家に付きたかったのではないだろうか。 柴田勝家はかつて、自分が与力を務めた武将だし、佐々成政も前田利家も柴田方にいる。 しかし、27歳になり、己の感情だけでなく、蒲生家全体を考えなくてはならなくなっていた賦秀は、南近江に所領を持つという地勢的理由と、秀吉の勢いを見て、秀吉に付いた。

 賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は、北ノ庄にて自刃。 前田利家は羽柴秀吉に降り、のちに豊臣政権下で重きをなしてゆく。 佐々成政も一旦は秀吉に降るが、小牧・長久手の戦いに乗じて、反旗を翻す。 しかし、秀吉に攻められ降伏。 九州平定の後に肥後一国を与えられるが、国人一揆が起こり、近隣大名の助けで鎮圧するも責任を取らされ、天正16年(1588)閏5月14日摂津国尼崎にて切腹した。 蒲生氏郷が成政の馬印を使用したいと、願い出たのは、この2年後のことであった。(賦秀は天正13年、氏郷に改名)

 
 蒲生氏郷は、関東に出陣して、まずは伊豆国韮山城攻めに加わったが、北条氏規が指揮する城方の抵抗激しく、武功を立てることはできなかった。 その後、相模国小田原城に進出し、城の北側に陣を敷いた。 城を包囲して約1カ月、氏郷に武功を立てる機会がめぐってきた。 北条家当主・氏直の弟で、岩付城主・北条氏房が夜襲を仕掛けてきたのだ。 氏郷は、自ら槍を取り、氏房の家臣、広沢重信と槍を交えた。 蒲生勢、岩付勢双方、小勢同士ながら激しくぶつかった。 やがて、広沢は戦いつつも戦況を判断し、頃合を見て兵を引き上げた。 蒲生勢もこれを城門まで追い城内に矢玉を打ち込んだが、やがて引き上げた。 戦い終わった氏郷の鎧には、3,4ヶ所の槍傷があり、鯰尾の冑にも矢が2筋立っていたという。 小競り合いとはいえ、激しいものだった。 やがて、この事が秀吉の本陣にも聞こえ、氏郷は念願の三階笠の馬印を許された。

 佐々成政の三階笠の馬印を手に入れた氏郷であったが、北条氏の降伏により関東を制した秀吉の奥州仕置で会津への転封が決まった。 12万石から42万石に加増されたが、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽にあっては、本望を遂げることはできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と、嘆いたという。

 会津転封については、細川忠興も候補に挙がっていたというが、関東に入った徳川家康や奥州の伊達政宗を抑えるには、短気者と言われる忠興より氏郷が適任と豊臣秀吉は判断したのだろうか。 それとも、天下に望みを持ち、武将としての才がある氏郷を危険だと思い遠ざけたのか。 あるいは、織田家家臣の中で、最後まで逆らい最後は切腹に追い込んだ男の馬印を所望したのが、気に入らなかったのか。 そういえば、柴田勝家の馬印「金の御幣」を引き継いで使用していた豊臣秀次は、のちに謀反の罪で切腹させられた。 

 その後、氏郷は大崎・葛西一揆、九戸政実の乱をへて、92万石に加増されたが、文禄2年(1593)肥前・名護屋の陣中にて吐血し発病、2年後の文禄4年(1595)京・伏見の屋敷にて死去。 享年40。 

 蒲生氏郷の死後、豊臣秀吉は家督を継いだ13歳の鶴千代(のちの秀行)を近江日野2万石に転封しようとしたが、これに、異を唱えなんとか撤回させたのが、前田利家であったことは、氏郷にとっては、幸いであったかもしれない。

(文/葛城涼介)

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