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真田幸村

戦国 ラスト・ヒーロー

戦国奇談 幸村・政宗・宗茂 
 真田幸村(信繁) 1567(永禄10)〜1615(慶長20)
  幼名     弁丸(9歳まで武藤姓)
  仮名     源次郎
  諱      信繁
  官途名   左衛門佐

 真田幸村といえば、戦国武将の中でも1、2を争う人気がある。 しかし、もし大坂の陣がなければ、幸村の名を知るものは少なかったであろう。 「真田昌幸の息子にそのような名前の者がいたような?」そんな感じであったろう。 (ちなみに、幸村の名は、同時代の資料や手紙にその名はなく、信繁というのが正しいのだが、ここでは幸村の名を使う。)

 真田幸村が、大坂の陣までに戦場に立ったのは、わかっている限り2度だけだ。 1590年(天正18)24歳の時、豊臣秀吉が北条氏を打つために関東に出陣した。 この戦に父・昌幸、兄・信幸と共に加わり、碓氷峠を越えて関東に出陣した。 これが、幸村の初陣とされている。

 2度目の戦いは、10年後の1600年(慶長5)34歳の時、関ヶ原の前哨戦、信州の上田城で徳川秀忠の軍勢を、父・昌幸と共に迎え撃った第2次上田合戦だ。 この戦でみごとに秀忠軍を退けたが、肝心の関ヶ原で西軍が敗れたため、この後、昌幸・幸村は長い蟄居生活を送ることとなる。

 真田幸村は19歳から34歳までの15年間、上杉・豊臣の人質としての生活を送り、上田合戦をはさんで、34才から48才までの14年間は、九度山での蟄居生活だった。 幸村とは意外なほど戦場とは縁のない男であった。
(豊臣時代は、大谷吉継の娘を娶ったり、官位を賜るなど人質というより近習として仕えていたのだろう)


 確かに、戦国最後の世代の真田幸村は、人生の大半を戦場往来で過ごしてきた世代ではない。 しかし、同じ年に生まれた伊達政宗は、15歳で初陣を飾り、秀吉に屈服するまでの9年間奥羽の地を席巻し、その後、文禄の役では海を渡り、関ヶ原の時は奥羽の地で上杉と戦った。 もう1人同じ年生まれの立花宗茂も、15歳で初陣を飾り、その後6年間九州の地で秋月、島津と戦い、小田原の陣を経て、文禄・慶長の役では、「日本軍第一の勇将」と武名を轟かせた。 それらに比べれば、幸村の武名などなきに等しかった。

 しかし、最後の最後で天は真田幸村に大きな舞台を用意した。 大坂の陣、この一戦において幸村は「日本一の兵」の称号と数百年に及ぶ名声を手に入れた。 冬の陣では、真田丸における鮮やかな戦ぶり、夏の陣では、徳川家康本陣に突撃をくりかえし、家康が討ち取られたとの伝説まで生み出した。 戦術だけではない、軍勢の具足・旗印を赤備えにし、「関東勢百万も候え、武士は一人もなく候」と、大見得を切る。 この大舞台の主役は、間違いなく幸村であった。

 戦後、島津家は国許に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と書き送り、細川忠興は、「古今これなき大手柄」と賞賛した。

※ 立花宗茂の生年には、1569年説もある。

(文/葛城 涼介)

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馬場信春・本多忠勝

無傷の勇将
戦国奇談 本多忠勝
 

 馬場信春 1515(永正12)〜1575(天正3)
  諱     景政 (教来石)
         信房・信春 (馬場)
  官途名  民部少輔
  受領名  美濃守
 本多忠勝 1548(天文17)〜1610(慶長15)
  幼名    鍋之助
  仮名    平八郎
  諱     忠勝
  官途名  中務大輔


 馬場信春は、武田信虎・信玄・勝頼の3代に仕えた戦国武将である。 1531年(享禄4)17歳で初陣を飾り、戦場往来44年、数々の戦で戦功を上げたが、身に一つの傷も負わなかったという勇将である。

 1564年(永禄7)つわもの揃いの武田家臣団の中でも、武勇の誉れも高く「鬼美濃」あるいは、「夜叉美濃」と、畏怖された原 美濃守 虎胤が亡くなった。 翌年、信春は信玄より「鬼美濃の武功にあやかれ」と言われ、馬場 美濃守 信春を名乗るようになり、その後、「不死身の鬼美濃」と異名をとった。

 馬場信春は、武勇だけの人ではない。 築城にも長け、器量も一流といわれた。 1568年(永禄11)武田軍が、駿河に侵攻した際、信玄が今川館の財宝が失われるのを惜しみ運び出させていた所に信春が駆けつけ、運び出した財宝を、すべて火中に投げ入れ燃やしてしまった。 そして、信玄に対し「合戦の最中に、敵の財宝を奪うなど後世の物笑いになる」と、苦言を呈した。 これには信玄も「信春の申すこと、もっともである」と、納得したという。

 馬場信春は「一国の太守になれる器量人」と評され、長篠の戦の時は「馬場美濃守、手前の働き比類なし」と、いわれた。 戦場往来44年、戦において初めて傷を負った時が、信春にとって最後の戦となった。 享年61、設楽ヶ原の戦場に命を散らした。

 
 徳川家臣団の中にも無傷の勇将がいる。 本多忠勝、彼もまた、13歳の初陣以来57度の戦いに臨み、傷一つ負うことがなかった、といわれる。 1560年(永禄3)桶狭間の戦いの前哨戦、大高城兵糧入れの初陣以来、三河平定戦、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手、関ヶ原と、つねに家康と共に戦場を駆けた。

 1572年(元亀3)三方ヶ原の前哨戦、一言坂の戦いでは、殿軍を務め、その見事な采配から「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と、武田軍から評された。 三方ヶ原の戦いの時も敗れたりとはいえ、信玄に「家康公は、海道一たぐいまれなる名将と評判が高い。それに、本多平八は若輩であるが、これもまた、ただものではない。」と、言わしめた。

 他にも本多忠勝を、賞賛する声はある。 織田信長は、「日本の張飛」、「花実兼備の勇士」と評し、豊臣秀吉は、「日本第一、古今独歩の勇士」、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西一対の武将」と評した。

 1600(慶長5)関ヶ原の後、真田昌幸、信繁父子の処遇をめぐり家康と対立した時、娘婿の真田信幸と共に父子の助命嘆願をしたが、家康は何度も煮え湯を飲まされた、昌幸をなかなか許さなかった。 すると忠勝は「ならば殿と一戦つかまつる」と啖呵をきった。 これには家康も首を縦に振るしかなかった。 忠勝も馬場信春同様主君に対しても、直言できる男であった。

 
 「無傷の勇将」、戦国時代の真っ只中では、総大将でさえ矢弾の洗礼をうけ、自ら太刀をとることも珍しくなかった。 隣国の北条氏康など関東を代表する大大名でありながら、身に七ヶ所・顔に二ヶ所の向こう傷があったと伝えられる。 その中で戦場を駆け回る侍大将たる二人が傷一つ負わなかったのは奇跡に近いであろう。 武田の元祖「鬼美濃」原虎胤は、合戦に臨むこと三十八度、全身に五十三ヶ所の傷があったといわれ、本多忠勝の同僚、井伊直政も、全身傷だらけであったと伝わる。 そもそも二人は最初から侍大将ではない。 十代での初陣から戦場を駆けずり回り、自ら首を取り、武功を立て得た地位である。 まさに、戦国の勇将というにふさわしい男達である。

 馬場信春、本多忠勝、共に武勇に優れ一流の器量を持つ、智勇兼備、花
実兼備の武将である。 甲斐と三河、生まれた場所も、生まれた時も異なる二人であるが、よく似た二人である。

 そんな二人が出会うのは、やはり戦場であった。 三方ヶ原は、武田の圧勝であったが、本多忠勝25歳、武名を確実なものとした。 そして3年後の長篠の戦いは、織田・徳川の圧勝、馬場信春は61歳で生涯を閉じた。 無傷の勇将の遺伝子は、馬場信春から本多忠勝へと受け継がれた。

(文/葛城 涼介)

武田信玄マグカップ

信玄MC1

 

北条綱成・武田信玄

八幡の旗印
戦国奇談 武田信玄
 

 北条綱成 永正12年(1515)〜天正15(1587)
  [1542年まで福島(くしま)姓]
  幼名    勝千代
  仮名    孫九郎
  諱      綱成
  官途名   左衛門大夫
  受領名   上総介
  法号    道感
 武田信玄 大永元年(1521)〜元亀4年(1573)
  幼名    太郎
  諱     
晴信
  官途名   大膳大夫
  受領名   信濃守
  法号    信玄

 
戦国時代の武士にとって「旗」という物は、我々が思うより大切なものであった。

 天正13年(1585)下野国において、北条勢と佐竹・宇都宮等、北関東諸勢が戦った。 この時、北条方の岡部権大夫という武士が、佐竹勢と戦い首級一つを上げ、自陣に引き返す途中、背中の旗指物が無くなっているのに気がついた。 すると権大夫は、敵陣にとって返し 「我こそは下総の国の住人、岡部権大夫なり。 ただいま組み打ちにて旗指物を落とし候。 もし拾いたる者あれば、この首いまだ実検入れざれば、この場で旗と取換え仕らん。」 と呼びかけた。
 
 すると、佐竹勢の中から一人の男が歩み出て 「我こそは河中喜平次、その落としたる旗、この旗に候」 と、白地に猪を描いた一本の旗を掲げた。 旗を見た権大夫は、「たしかに、その旗に候」 と首を掲げて喜平次に向かって歩き出した。 喜平次もまた旗を掲げて、権大夫に向かって歩き出した。 そして、戦場の真ん中、敵味方が見守る中、首と旗を交換した。 この時権大夫は、旗を背に差してもらうため、敵である喜平次に背を向けた。 一瞬見守っていた者の間に緊張が走った。 しかし、喜平次は、何の躊躇もなく旗を背に差してやった。 つまり、己の旗指物とは命がけでとった首級と同等以上の価値があったという事であろう。 

 戦国武将の旗印といえば、武田信玄の「風林火山」、上杉謙信の「毘」、あるいは、織田信長の「永楽銭」など、有名なものがあるが、北条綱成の「八幡」の旗もまた有名である。

 北条綱成は、今川家の武将、福島(くしま)正成の子として生まれたが、父が武田との戦で戦死すると、家臣に伴われ、北条家二代当主、北条氏綱を頼って小田原にやってきた。 7歳の時であった。 (綱成の父については、北条家の侍大将、伊勢九郎(福島九郎)という説もある。)

 福島勝千代(後の綱成)は、氏綱に小姓として仕え、長じては武勇に優れた若者に成長した。 氏綱は、この若者に惚れ込み、己の「綱」の一字を与え「福島綱成」と名乗らせ、自分の娘と結婚させた。そして、相模国玉縄城に、城主北条為昌を補佐する為に派遣した。 為昌は、氏綱の次男で綱成より5歳年下であったが、23歳の若さで亡くなってしまった。 為昌の死後、綱成は為昌の養子として、北条一門に迎え入れられ、玉縄城主・北条綱成となった。 氏綱の綱成に対する、並々ならぬ、期待が見て取れる。 28歳になっていた綱成は、この期待に十分答えるだけの力量を持っていた。 同い年の、北条家三代当主、北条氏康と共に関東の地で戦いに明け暮れ、数々の武功をあげた。 上総・下総・武蔵と、戦いに赴く綱成の戦陣には、朽葉色の練絹に「八幡」と墨書された旗印が誇らしげに掲げられていた。 綱成隊は、この旗を押したて「勝った! 勝った!」と叫びながら、敵陣に真っ先に切り込んでいった。 綱成は、この旗にちなみ「地黄八幡」と畏怖され、玉縄衆は、北条最強部隊と、成っていった。

 永禄11年(1568)12月 甲斐の武田信玄は、14年前に結ばれた、甲・駿・相の三国同盟を破棄して、駿河の今川氏真を攻めた。 これにより、武田と北条は敵対関係となり、三年間に亘り駿河国東部で、一進一退の攻防を繰り広げることとなる。 この事態に対するため北条氏康は、北条綱成を、駿河国駿東郡深沢城に配した。 綱成53歳の時である。 

 元亀2年(1571)1月 信玄は、深沢城を囲んだ。簡単には落とせないと見た信玄は、一通の矢文を城内に射こんだ。 「深沢矢文」といわれるもので、駿河侵攻の正当性を説き、長年の甲斐と相模の関係を語り、甲相対決は自分に理が有りと開城を迫り、あるいは小田原に援軍を求めよ、そして主力決戦を望む、などと書かれていたものである。 しかし、綱成は、これを無視し籠城を続けた。 これに対し信玄は、金堀衆に坑道を掘らせ、土塁を崩し綱成を追い詰めていった。 さすがの綱成も、もはやこれ以上は利なしと城を開け小田原に去った。

 綱成が去ったあと、城内に入った武田の兵が、置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。 しかし信玄は「左衛門大夫(綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。 あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田信尹(真田幸隆四男・昌幸 弟)に、「左衛門大夫の武勇にあやかれ」と旗を下賜した。 後に、この事を伝え聞いた綱成は、「信玄の言葉で、我が恥辱は雪がれた」と悦んだ。

 これとよく似た話がもうひとつ伝わっている。 永禄12年(1569)6月 武田信玄は駿河国三島に出陣して、北条氏康と対峙した。対陣中、両軍は風雨に見舞われ、武田の陣では、川の水が流れ込み大騒ぎとなった。 さらに、北条の陣から北条方の興国寺城に向かった兵を、敵襲と勘違いした為、大混乱に陥った。 信玄は仕方なく兵を引いた。 その後、興国寺城の兵が、武田軍の「八幡大菩薩」の旗が落ちているのを見つけ、小田原の氏康に届けた。 氏康は、この旗を九島伊賀守(北条綱房・綱成実弟)に与えた。 このことは、「信玄一世一代の不覚」といわれた。

 大名や侍大将にとって、旗を奪われるということは、「恥辱」であり、「一世一代の不覚」という事になるのだろう。 「地黄八幡」の旗は、現在、長野市松代町の「真田宝物館」にあるが、「八幡大菩薩」の旗の行方は分からない。

  
      
 話は変わるが、武田信玄が永禄11年(1568)12月 駿河に侵攻してから、元亀2年(1571)12月 北条家四代当主 北条氏政と甲相同盟を結ぶまでの3年間、駿河国東部で武田と北条は戦いを繰り広げたが、これは、信玄にとって予定外ではなかったか。 氏政は、信玄の婿であり、氏政の嫡男氏直は孫である。 さらに14年間に及ぶ同盟関係の間、上杉謙信・関東諸将に対する北条を助け、何度も関東に出陣している。 北条氏康は、落日の今川より武田を選ぶ、と思っていたのではないだろうか。 しかし氏康は、今川を助け信玄と対峙し、駿河侵攻について弁明に来た、武田の使者、寺島甫庵を牢にぶち込んでしまった。 さらに、上杉謙信と越相同盟を結んだ。 信玄の「小田原侵攻」や「深沢矢文」は、焦りや苛立ちのようにも思える。 元亀2年(1571)10月 北条氏康が亡くなり氏政が実権を握ってようやく12月甲相同盟が結ばれた。 翌、元亀3年(1572)9月、信玄は本格的に西上作戦を開始したが、残された時間はわずかしかなっかた。 12月、三方ヶ原で徳川家康を一蹴したが、その後すぐに発病して翌年元亀4年(1573)4月、
伊奈郡駒場で52年の生涯を閉じた。 もし北条との3年間がなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれない。 

(文/葛城 涼介)


武田信玄マグカップ  

信玄MC1   

hachiman

蒲生氏郷・佐々成政・前田利家

憧れの馬印
戦国奇談 蒲生氏郷

 
蒲生氏郷 弘治2年(1556)〜文禄4年(1595)
  幼名   鶴千代
  仮名   忠三郎
  諱     教秀 賦秀 氏郷
  受領名 飛騨守
  官途名 左近衛少将
  洗礼名 レオン
佐々成政 天文5年(1536)?〜天正16(1588)
  仮名   内蔵助
  諱     成政
  受領名  陸奥守
前田利家 天文7年(1539)〜慶長4年(1599)
  幼名   犬千代
  仮名   又左衛門
  諱     利家
  受領名  筑前守
  官途名  左近衛権少将 右近衛権中将
        権中納言 権大納言


 蒲生氏郷といえば、利家びいきの武将として知られる。 

 文禄元年(1592)「文禄の役」が、始まると諸将が肥前名護屋に参集した。 その折、前田利家と徳川家康の家臣同士のいざこざから、両陣営が一触即発の事態になった。 蒲生氏郷は真っ先に前田陣営に駆けつけ、徳川陣営と対峙した。

 又ある時、諸大名との雑談中に、「豊臣秀吉の後継者は誰になるか」、との話題になった。 豊臣秀次や徳川家康の名が挙がるなか、蒲生氏郷は、前田利家の名を挙げ、「利家でなくば、自分だ」と、言ったという。

 蒲生氏郷は、前田利家の嫡男・利長とは織田信長の娘を介して相婿であり、仲も良かったと伝わる。 共に、利家譲りの鯰尾の冑をかぶり戦場を駆けた。 さらに、利家の次男・利政の室は氏郷の娘である。

 氏郷には、もう1人憧れていたと思われる武将がいた。 佐々成政である。

 天正18年(1590)豊臣秀吉は、関東の北条氏を討つことを決め、諸将に出陣を命じた。 蒲生氏郷は、秀吉の許に赴き、関東への出陣に際して、「いままで使用していた熊の毛皮の馬印に変えて、佐々成政の三階笠の馬印を用いたい」と願い出た。 秀吉は、「成政の三階笠は、天下に知られた馬印ゆえ、許すわけにはいかぬ」と、一旦は退けたが、氏郷は、なおも「我が武勇は、成政に劣ると言われるのですか」と、食い下がった。 秀吉は、仕方なく「成政の馬印を使用したくば、関東にて武功をたてよ」と、言い渡した。 「武功をたてよ」と、言われては、数千の兵を率いる身分になっても、先陣にて自ら槍を振るいたがる氏郷である、武功を立てられなければ、関東において討ち死にする覚悟を決めた。 氏郷は、密かに三階笠の馬印を作り、自らの影像を描かせ近江日野の菩提所に納めさせ、決死の覚悟で関東へ出陣した。

 
 氏郷は、弘治2年(1556)南近江を領する六角義賢の家臣、蒲生賢秀の嫡男として生まれた。 幼名は、鶴千代。

 永禄11年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛の途についた。 信長の前に南近江の六角義賢は逃亡、義賢の家臣であった蒲生賢秀は信長に降り、嫡男の鶴千代(後の氏郷)を人質として差し出した。 この時、鶴千代の前に現れたのが、日の出の勢いの織田信長と柴田勝家・丹羽長秀・木下秀吉ら、織田家の誇る武将たちである。 しかし、鶴千代の胸をときめかせたのは、信長の脇を固める馬廻り衆の精鋭集団、黒母衣・赤母衣衆であったのかもしれない。 その中でも、佐々成政は黒母衣衆筆頭、前田利家は赤母衣衆筆頭であったと伝わる。 2人は鶴千代をはじめ織田家の若き侍たちの憧れであったろう。 鶴千代13歳、利家30歳、成政33歳の時である。

 しかし、鶴千代は馬廻りではなく、別の道を歩むこととなる。 元服して、忠三郎教秀、のちに賦秀と名乗り、信長の娘・冬姫と婚姻して近江日野城へ戻ることを許された。 信長は賦秀の武将としての非凡なる才を見抜き、自らの婿としたのである。 その後、近江長光寺城に入った柴田勝家の与力として、父・賢秀と共にあまたの戦場を駆けることとなる。

 14歳、伊勢国の北畠攻めでの初陣を飾り、それ以後、越前・朝倉、近江・浅井、伊勢長島一向一揆と戦った。 柴田勝家が、越前国北ノ庄に移ってからは、織田信長の直属軍として、摂津、伊賀、そして、武田を討つために甲斐へと転戦を繰り返し、戦国武将としての道を邁進した。 一方、佐々成政・前田利家は馬廻り衆としての活躍が認められ不破光治と共に越前の内2郡を与えられ、越前北ノ庄城に入った勝家の与力として北陸方面の攻略に、そして畿内の戦いの応援へと戦場往来の日々を送る。 そして、佐々成政は越中、前田利家は能登を与えられ織田家の有力部将に成り上がっていた。 

 そして、運命の天正10年(1582)6月2日本能寺の変。 織田信長が、明智光秀の謀反に倒れ、その光秀を羽柴秀吉が討った。 その後、柴田勝家と羽柴秀吉が対立。 賦秀は秀吉に付いたが、もしかしたら勝家に付きたかったのではないだろうか。 柴田勝家はかつて、自分が与力を務めた武将だし、佐々成政も前田利家も柴田方にいる。 しかし、27歳になり、己の感情だけでなく、蒲生家全体を考えなくてはならなくなっていた賦秀は、南近江に所領を持つという地勢的理由と、秀吉の勢いを見て、秀吉に付いた。

 賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は、北ノ庄にて自刃。 前田利家は羽柴秀吉に降り、のちに豊臣政権下で重きをなしてゆく。 佐々成政も一旦は秀吉に降るが、小牧・長久手の戦いに乗じて、反旗を翻す。 しかし、秀吉に攻められ降伏。 九州平定の後に肥後一国を与えられるが、国人一揆が起こり、近隣大名の助けで鎮圧するも責任を取らされ、天正16年(1588)閏5月14日摂津国尼崎にて切腹した。 蒲生氏郷が成政の馬印を使用したいと、願い出たのは、この2年後のことであった。(賦秀は天正13年、氏郷に改名)

 
 蒲生氏郷は、関東に出陣して、まずは伊豆国韮山城攻めに加わったが、北条氏規が指揮する城方の抵抗激しく、武功を立てることはできなかった。 その後、相模国小田原城に進出し、城の北側に陣を敷いた。 城を包囲して約1カ月、氏郷に武功を立てる機会がめぐってきた。 北条家当主・氏直の弟で、岩付城主・北条氏房が夜襲を仕掛けてきたのだ。 氏郷は、自ら槍を取り、氏房の家臣、広沢重信と槍を交えた。 蒲生勢、岩付勢双方、小勢同士ながら激しくぶつかった。 やがて、広沢は戦いつつも戦況を判断し、頃合を見て兵を引き上げた。 蒲生勢もこれを城門まで追い城内に矢玉を打ち込んだが、やがて引き上げた。 戦い終わった氏郷の鎧には、3,4ヶ所の槍傷があり、鯰尾の冑にも矢が2筋立っていたという。 小競り合いとはいえ、激しいものだった。 やがて、この事が秀吉の本陣にも聞こえ、氏郷は念願の三階笠の馬印を許された。

 佐々成政の三階笠の馬印を手に入れた氏郷であったが、北条氏の降伏により関東を制した秀吉の奥州仕置で会津への転封が決まった。 12万石から42万石に加増されたが、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽にあっては、本望を遂げることはできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と、嘆いたという。

 会津転封については、細川忠興も候補に挙がっていたというが、関東に入った徳川家康や奥州の伊達政宗を抑えるには、短気者と言われる忠興より氏郷が適任と豊臣秀吉は判断したのだろうか。 それとも、天下に望みを持ち、武将としての才がある氏郷を危険だと思い遠ざけたのか。 あるいは、織田家家臣の中で、最後まで逆らい最後は切腹に追い込んだ男の馬印を所望したのが、気に入らなかったのか。 そういえば、柴田勝家の馬印「金の御幣」を引き継いで使用していた豊臣秀次は、のちに謀反の罪で切腹させられた。 

 その後、氏郷は大崎・葛西一揆、九戸政実の乱をへて、92万石に加増されたが、文禄2年(1593)肥前・名護屋の陣中にて吐血し発病、2年後の文禄4年(1595)京・伏見の屋敷にて死去。 享年40。 

 蒲生氏郷の死後、豊臣秀吉は家督を継いだ13歳の鶴千代(のちの秀行)を近江日野2万石に転封しようとしたが、これに、異を唱えなんとか撤回させたのが、前田利家であったことは、氏郷にとっては、幸いであったかもしれない。

(文/葛城涼介)

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加藤清正・榊原康政・吉川広家

憧れの馬印 2
戦国奇談 加藤清正

榊原康政 天文17年(1548)〜慶長11年(1606)
 幼名    於亀
 仮名    小平太
 諱      康政
 官途名   式部大輔

吉川広家 永禄4年(1561)〜寛永2年(1625)
 幼名    才寿丸
 仮名    次郎五郎・又次郎
 諱      経言(経信)・広家
 官途名   蔵人頭・民部少輔

加藤清正 永禄5年(1562)〜慶長16年(1611)
 幼名    夜叉丸
 仮名    虎之助
 諱      清正
 官途名   主計頭
 受領名   肥後守

 文禄元年(1592)、豊臣秀吉は、明・朝鮮出兵の号令を発した。 文禄・慶長の役の始まりである。

 全国の諸将は兵を率いて、肥前・名護屋城へと、続々と集結してきた。 肥後半国・隈本城城主、加藤清正は、第2陣に属していたが、渡海する前に徳川家家臣・榊原康政を尋ね「式部大輔殿の馬印を、お借りしたい」と、懇願した。

 馬印とは、戦場において武将の傍らに立てられ、武将の所在を知らしめるものである。 総大将の馬印は戦場の後方に立ち味方の兵を鼓舞し、侍大将の馬印は共に戦場を駆け、率いる部隊をまとめ、その働きを総大将に知らせるものである。 いわば武将の分身ともいえる。

 その馬印を、加藤清正は借りたいと言ったのだ。 榊原康政はこの申し出を快諾した。 こうして康政と共に長年戦場を駆けてきた、金の桔梗笠の馬印は、海を渡ることとなった。 清正と共に朝鮮の地に渡った馬印は、康政の武功を背景に清正の率いる将兵の士気を鼓舞した。

 榊原康政は加藤清正より14歳年長である。 清正がまだ夜叉丸、あるいは虎之助と呼ばれていた頃より、数々の武功を挙げていた。 15歳の時より松平元康(徳川家康)に仕え、翌年三河一向一揆との戦いで初陣を飾り、元康より「康」の一字を賜り、康政と名乗るようになった。 そして、3人の与力を与えられたのを皮切りに、三河平定戦で活躍し、20歳の時には一手の大将になっていた。 その後も、対今川、対武田、あるいは姉川の戦いと、戦の日々がつづいた。 小牧・長久手の戦いの時には、武功もさることながら、羽柴秀吉を非難する檄文を草して、敵味方の陣にばら撒き秀吉を激怒させた。 この小牧・長久手の戦いには、清正も兵150を率いて出陣していたが、23歳のまだまだ駆け出しの戦国武将であった。

 加藤清正が、いつの頃から榊原康政に憧憬の念を抱いていたかわからないが、天正10年(1590)の秀吉の関東征伐の時には、清正から康政に帷子が贈られ、康政は関東の状況を知らせる書状を清正に送り、かなりの誼を結んでいる。

 文禄・慶長の役が終わり、日本に戻った清正は、馬印のお礼として「五倫書」を康政に贈った。 後に清正の娘、古屋は康政の3男で榊原家を継ぐこととなる榊原康勝に嫁いでいる。


 もう1つ、清正と文禄・慶長の役に絡んだ馬印の話が伝わっている。

 慶長の役のとき、浅野幸長・宍戸元続(毛利秀元・家臣)は、蔚山に前進基地として城を築いていた。 完成のあかつきには、加藤清正が在番として入城する予定であった。 しかし、完成に近づいた慶長2年12月22日、明・朝鮮の大軍が突如として押し寄せてきた。 幸長は籠城の手はずを整えると共に、西生浦倭城にいた清正に知らせを走らせた。

 清正は、知らせを受けると後方の釜山の本営に援軍を要請し、自らはわずかな手勢を率いて蔚山に向かい城に入った。 城を囲む明・朝鮮連合軍は5万7千という大軍であった。 対する籠城軍は約2千、圧倒的兵力差であった。 それに加え敵勢の突然の襲来で、兵糧も2日分しかなく、水の手も押さえられるという最悪の状況であった。

 戦いが始まり10日ほど経って、年が明け正月を迎えた。 援軍はいまだ現れず、城内はもはや限界に近く、清正も幸長も死を覚悟した。 正月3日落城寸前の蔚山倭城に、ついに援軍が現れた。 毛利秀元・鍋島直茂・黒田長政・蜂須賀家政・加藤嘉明・長宗我部元親・生駒一正、総勢2万。 蔚山郊外の丘に陣を張ったが、敵勢は約3倍、決して楽観できる状況ではなかった。 翌4日、明・朝鮮連合軍は、最後の総攻撃を城に仕掛けた。城方も最後の気力を振り絞り、必死に凌いだ。 援軍はこの様子を見て取り、敵の背後を突くため動き出した。 そのとき、毛利秀元の軍勢より、二引両の馬印を掲げた一軍が、真っ先に飛び出し敵軍に突入した。 その大将は、縦横無尽に敵勢をなぎ倒し、鬼神の如き働きをした。 その後、後続の軍が戦に加わり、明・朝鮮軍を敗走させた。

 戦いが終わり、この様子を城より見ていた清正は、「あの二引両の馬印の武将は誰か?」と、たずねると、吉川広家であることが分かった。 吉川広家は、吉川元春の3男で毛利元就の孫にあたる。 広家は、わずか10歳で自ら志願して初陣を飾ったり、この蔚山倭城の戦いのとき5万7千の軍に真っ先に切り込んでいったりと、父・元春、兄・元長に負けないぐらいの猛将ぶりであった。 さらに、小早川隆景亡き後の毛利家も吉川広家が居れば安泰と言われた。 そして後年、評価は分かれるが、関ヶ原において東軍に内通し、戦いの趨勢と毛利家の運命の鍵を握った。


 清正は、蔚山倭城の戦いの後、さっそく広家を招き、その戦ぶりを称え礼を述べた。 そして話の中で「貴殿の馬印は、遠目に見えずらく、勇将には似合わないので変えたほうが良いのではないか」と、問いかけると、広家は「それでは、主計頭殿(清正)の馬簾の馬印を賜りたい」と願い出た。 清正は、この申し出を喜び、馬印の使用を許した。 清正の馬印、銀の九本馬簾を、広家は、赤の十三馬簾(婆々羅)にして使用した。

 関ヶ原の戦いのとき、南宮山において毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親の前に立ちはだかったのが、この馬印である。

(文/葛城 涼介)


竹中半兵衛・福島正則・黒田長政

一の谷兜物語
戦国奇談 黒田長政

 竹中重治 天文13年(1544)〜天正7年(1579)
  仮名   半兵衛
  諱     重虎・重治

 福島正則 永禄4年(1561)〜寛永元年(1624)
  幼名   市松
  諱     正則
  官途名  左衛門大夫・左近衛権少将

 黒田長政 永禄11年(1568)〜元和9年(1623)
  幼名   松寿丸
  仮名   吉兵衛
  諱     長政
  受領名  甲斐守・筑前守


 永禄7年(1564)2月6日、美濃国主・斉藤龍興の居城で難攻不落といわれた稲葉山城が、18人の男たちによって乗っ取られた。 男たちを率いたのは竹中重虎、後の世で名軍師と謳われることとなる竹中半兵衛重治、21歳のときである。

 竹中半兵衛は、稲葉山城に出仕していた弟の久作(竹中重矩)に仮病を使わせ、その看病と称して家臣16人を従え白昼堂々城内へ乗り込み、斉藤龍興の寵臣・斎藤飛騨守他5名を討ち取り城を占拠した。 乗っ取りが成功すると、城外に待機していた岳父・安藤伊賀守守就に合図を送り、安藤勢・竹中勢、兵2000で城下を制した。 城を取られた龍興は城外へ脱出して鵜飼山城へ逃れた。 竹中半兵衛が歴史の表舞台に躍り出た瞬間である。

 この竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りは、主君斉藤龍興を諌める為とか、斉藤飛騨守から侮辱を受けた為とか言われているが、城に乗り込んだ直後に飛騨守は討ち取っているし、城を乗っ取った後、半年にわたり占拠しつづけた事を見ると、半兵衛は龍興に代わり稲葉山城だけでなく美濃国をも乗っ取ろうとしていた可能性もある。 なんしろ美濃はわずか十数年前に斉藤道三が国主・土岐頼芸を追い出し国を奪った経緯がある。 戦国の理どおり下剋上を受け入れる下地が美濃にはあった。

 しかし、実際は半年間の占拠の後、竹中半兵衛は稲葉山城を斉藤龍興に返却して近江国に隠棲してしまった。 半年の間に美濃の情勢が半兵衛にとって有利に動かなかったのかもしれない。 城を占拠しているときに、尾張国の織田信長から「城を明け渡せば美濃半国を与える」との申し入れがあったが、半兵衛はこれを断っている。 信長の言葉を信用しなかったのか、あるいは他国の介入を望まなかったのかもしれない。 しかし、3年後、稲葉山城を落とし美濃国を平定したのが信長であった。

 竹中半兵衛がいつから織田信長に仕えたかははっきりしないが、信長が美濃を征した3年後の元亀元年(1570)には、出仕していたようである。 信長の家臣となった半兵衛は、寄騎として木下藤吉郎秀吉(後の羽柴秀吉)と行動を共にするようになる。 姉川の戦い・小谷城攻城戦・長篠の合戦、そして播磨国攻略へと秀吉を支え続けたが、三木城攻めの最中、天正7年(1579)6月13日、36年の短い生涯を閉じた。

 竹中半兵衛の死に際して遺品わけが行われた。 金の切り裂きの馬印は羽柴秀吉へ(秀吉の瓢箪の馬印の下に付く金の切り裂きは、この時からか)、虎御前の太刀は山内一豊へ(半兵衛と一豊は姻戚関係との説も)、采配は黒田長政へ(最初は黒田官兵衛か)、そして一の谷兜は福島正則に送られた。

 一の谷兜は、源平合戦で有名な一の谷を象った銀箔押しの兜である。 その兜を譲り受けた、福島正則は羽柴秀吉子飼の武将で、三木城攻めで初陣を飾ったばかりの18歳の若武者であった。 譜代の家臣を持たない秀吉にとって従兄弟の正則は、他の子飼の若者達にもまして特別期待をかけられていた。 正則も期待にこたえ武功を挙げていく。 賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の部将・拝郷五左衛門の首を取り5000石を賜り、その後も小牧・長久手、紀州攻めと、秀吉の快進撃に付き従い、天正15年(1587)の九州征伐の後には、伊予今治11万石を領することとなった。 なんと初陣からわずか9年である。

 戦国時時代とはいえ織田家の小者から関白まで上り詰めた豊臣秀吉。 その奇跡とも言える成り上がりに引っ張られて、多くの者たちが異例の大出世を遂げた。 福島正則は加藤清正と並んでその筆頭であろう。 正則は、文禄4年(1595)には、尾張・清洲城主として24万石を領した。

 この頃、文禄・慶長の役の最中であったが、黒田長政と福島正則の間で諍いが起こった。 しかし、帰国後2人は和解し、その証として互いの兜を交換した。 長政からは大水牛脇立兜が、正則からは竹中半兵衛の遺品・一の谷兜が送られた。 一の谷兜が長政の手に渡ったのも不思議な縁の巡り合わせであろう。 なぜなら長政は幼き頃、半兵衛にその命を救われているからだ。

 黒田長政は、黒田官兵衛孝高の嫡男として永禄11年(1568)に生まれた。 父・官兵衛は播磨国の御着城城主・小寺政職に仕えていたが、その後、畿内を征し中国地方に攻略の手を伸ばしてきた織田信長の実力を見抜き、「小寺家は織田信長に付くべき」と主張し、主の政職を説得した。 そして、天正5年(1577)信長の中国地方攻略が本格化すると、総大将の羽柴秀吉と、その旗下の竹中半兵衛がやって来た。 官兵衛は自らの居城である姫路城の本丸を提供し、秀吉の家臣がごとく働いた。 官兵衛の人生が大きく動き出していた。

 そんな中、翌年の天正6年(1578)11月、大きな事件が起こる。 摂津国の荒木村重が突如として織田信長に背き有岡城に立て篭もった。 黒田官兵衛は、村重を翻意させるべく単身有岡城に乗り込んだが、城内の地下牢に幽閉されてしまった。 城に入ったまま帰ってこない官兵衛を信長は寝返ったと決め付け、人質として長浜城にいる官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を羽柴秀吉に命じた。

 この命令に困惑する羽柴秀吉の窮地を引き受けたのが竹中半兵衛だった。 半兵衛は松寿丸を(長政)を菩提山城に匿うと、織田信長には城下で病死した少年の首を送った。 信長に対してこのような大胆な行動に出れたのは、会って間もないにもかかわらず、黒田官兵衛という男を一点の曇もなく信じていたからであろう。 しかし、半兵衛が再び官兵衛に会うことはなかった。 官兵衛が有岡城に囚われて半年後、半兵衛はこの世を去った。 有岡城が落城して官兵衛が地下牢から救出された時には、さらに半年が経っていた。

 竹中半兵衛によって命を救われた松寿丸は、その後黒田長政と名乗り、戦国武将としての道を歩み始める。 備中高松城攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州征伐と戦場を駆け、武功を挙げた。 そして、文禄・慶長の役の時に、恩人である竹中半兵衛の一の谷兜を手に入れた。 長政は、関ヶ原の戦いのとき、この兜をつけて出陣している。

 黒田家の竹中家に対する恩義は、深いものがあり、まずは、石餅の家紋を竹中家から譲り受けている。 次いで、関ヶ原の戦いのとき、竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)や竹中重利(半兵衛の従兄弟)が当初、西軍だったのを東軍に寝返らせて、決戦当日は黒田長政と重門は共に戦った。 その結果2人は戦後、所領を安堵されている。 さらに、半兵衛の孫の重次(重門の子)は、黒田家の家臣になっている。

 一の谷兜はその後黒田家に代々伝わり、現在は一の谷兜をつけた黒田長政の肖像画と共に、福岡市博物館蔵となっている。

(文/葛城 涼介)

足利義教・細川政元・織田信長

叡山炎上
戦国奇談 織田信長


足利義教
 応永元年(1394)〜嘉吉元年(1441)
 室町幕府第6代将軍
 法号   義圓
 諱     義宣・義教
細川政元 文正元年(1466)〜永正4年(1507)
 室町幕府管領
 幼名   聡明丸
 仮名   九郎
 諱     政元
 官途名  右京大夫
織田信長 天文3年(1534)〜天正10年(1582)
 幼名   吉法師
 仮名   三郎
 諱     信長
 受領名  上総介・尾張守
 官途名  弾正忠


 比叡山延暦寺、京の北東に位置し最澄が延暦7年(788年)この地に建立して以来、天台宗総本山として現在まで続いている。 しかし、中世以前におけて叡山は、現在とは異なる顔を持っていた。 天台宗総本山・国家鎮護の大道場として権威を持ち、僧兵という名の武力を持ち、荘園や利権からなる財力を持っていた。 政に不満があれば神輿を担ぎ出し、時の権力者たちに強訴して自分たちの要求を認めさせてきた。 平安時代に権勢を誇った白河上皇は 、自分の意にならぬものとして鴨川の水・双六の賽・そして山法師(延暦寺の僧兵)をあげている。 武家政権以降も並の大名以上に権力を持った叡山は、まことに厄介な存在であった。


 室町時代、この叡山を自らの支配下に置こうとする男が現れる。 室町幕府第6代将軍・足利義教である。 義教は将軍就任以前は出家していて義圓と名乗り、天台座主を務めたこともある。 叡山では、「天台開闢以来の逸材」とも言われていたが、還俗して将軍に就任すると将軍権威を高める為に敵対することとなる。 将軍に就いて5年目の永享5年(1433年)、ついに武力衝突を起こす。 一旦は停戦するも、翌年には関東公方・足利持氏と結託し義教を呪詛したとの報を受け、再び叡山に攻め入った。 義教は、叡山の総本堂である根本中堂に立てこもった僧侶たちに対しする攻撃継続を主張したが、有力大名の反対に合い再び和議となった。 しかし、これであきらめる義教ではなかった。 「罪を悔いて入洛すれば、所領を安堵する」と、叡山に対し触れを出し、これを信じて出頭してきた僧侶たちを捕らえて斬首した。 武力ではなく謀略によって攻めたのである。 この処置に怒った叡山側は、再び根本中堂に立てこもり激しく抗議したが、義教はこれを黙殺し自らの意志を押し通した。 根本中堂に立てこもった僧侶たちは、義教の態度に激昂しあるいは失望して、自ら火を放ち憤死した。 これにより最澄以来の伝統を誇った根本中堂は灰燼に帰したのである。 永享7年(1435年)2月のことである。 

 その後、義教は有力大名の相続問題に干渉して大名統制を謀り、長年の懸案であった幕府に反抗的な関東公方・足利持氏を永享の乱で討ち、結城氏朝が持氏の遺児、安王・春王を奉じて起こした結城合戦にも勝利した。 しかし、嘉吉元年(1441)6月24日、結城合戦の戦勝祝いに招かれた赤松邸において、赤松満祐に暗殺された。 享年48才。 「天魔王」と呼ばれた男のあっけない最後であった。 


 根本中堂が焼け落ちてから64年後、叡山は再び戦火に遭うこととなる。 義教のときは、結果的な炎上であったが、今度は確信犯的な焼き討ちである。 男の名は細川政元、室町幕府管領であった。 政元は、応仁の乱から戦国時代に移り変わる時代に生きて、 戦国時代の扉を開く鍵の1つを握っていた男である。 延徳元年(1489年)、9代将軍・足利義尚が近江鈎の陣中で25歳の若さで病没すると、政元は次期将軍に堀越公方・足利政知(8代将軍・義政の弟)の子、香厳院清晃の擁立に動いたが、10代将軍に就任したのは足利義視(同じく義政の弟)の子、義材であった。 その後、政元は幕府との距離を置くが、幕府の重鎮であった元将軍・義政、将軍の父・義視が亡くなると、明応2年(1493年)将軍・義材が河内に出陣している間に京において香厳院清晃(還俗して足利義遐、後に義高・義澄と改名)を11代将軍に擁立した。 義材は、一旦は捕らえられ京の竜安寺に幽閉されたが、後に越中に逃れた。 明応8年(1499年)7月、越中に逃れていた足利義尹(義材が改名)が越前に移り上洛の機会を窺っており、さらに叡山が呼応して兵を挙げるとの報に接し、政元は先手を打って叡山に攻め入った。 政元は義教のときとは違い根本中堂・大講堂・法華堂などを躊躇なく焼き払い叡山を制圧した。 

 政元は、将軍を傀儡とすることで、「半将軍」と呼ばれるまでの幕府最大の権力者となり、朝廷に対しても、後柏原天皇の即位式の費用を求められた時、「天皇は、即位式を行わなくても天皇である」と言って、不遜な態度で拒否した。 その一方で政元は愛宕の法、飯縄の法に傾倒し、「出家の如く、山伏の如し」と言われ、女人を近づけなかった為、嫁も取らず、子も生さなかった。 そして、永正4年(1507)6月23日、養子の澄之、澄元の間で起きた家督争いに巻き込まれ、家臣の手により殺害された。 享年42才。


 3度目は72年後に起きた、有名な織田信長の焼き討ちである。 元亀2年(1571年)9月、信長は敵対していた浅井・朝倉に味方している叡山に対して、中立を保つように勧告をしたが、従わぬと見ると3万の兵で総攻撃を開始した。 信長勢は、まずは坂本を焼き払い叡山に攻めあがった。 武器を持って抵抗する山法師を一蹴して根本中堂をはじめ多くの堂舎を焼き尽くした。

 その後、浅井、朝倉を滅ぼし、長篠の戦いでは、武田勝頼を一蹴。 宿敵・本願寺を大坂から退去させ、天正10年には、武田家を滅ぼした。 天下布武へと着実に歩を進めていたが、天正10年(1582)6月2日、京・本能寺において家臣・明智光秀の謀反にて、炎の中で49年の生涯を閉じた。


 3人の共通点は、京の支配者であり日本一の権力者であり、宗教的権威を恐れぬ精神を持っていたことであろう。 そして、3人共、家臣の手によって殺害された。 「日本の独裁者は、殺される」というが、そういう意味では3人は独裁者だったのであろう。 ちなみに、3人が殺されたのは共に旧暦の6月であり、それは延暦寺の開基である伝教大師・最澄の亡くなった月であるのは奇妙な偶然である。

 室町の時代が、応仁の乱そして戦国時代へと移る中、権力もまた移っていった。 室町将軍から幕府管領へ、そして戦国大名へと権力の座にすわる者が替わっていった。 義教は自身が将軍であったが、管領・政元は将軍を傀儡とすることで権力を握り、信長は将軍を追放し室町時代を終わらせた。 室町という時代の一面を象徴した出来事であろう。

(文/葛城涼介) 


織田信長Tシャツ  織田信長ストラップ  織田信長キーホルダー
信長Tシャツ1  信長ストラップ1  織田信長キーホルダー1

織田信長マグカップ
織田信長マグカップ2−1

上杉謙信・景勝 直江兼続

「毘」の旗、戦塵をゆく
戦国奇談 謙信・景勝・兼続

上杉謙信 享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
越後守護・関東管領
幼名   虎千代(長尾)
仮名   平三
諱     景虎(長尾)・政虎(上杉)・輝虎(上杉)
法号   宗心・謙信
官途名  弾正少弼

上杉景勝 弘治元年(1555)〜元和9年(1623)
幼名   卯松(長尾)
仮名   喜平次
諱     顕景(長尾)・景勝(上杉)
官途名  弾正少弼・左近衛権少将・中納言
受領名  越後守

直江兼続 永禄3年(1560)〜元和5年(1620)
幼名   与六(樋口)
諱     兼続(樋口・直江)・重光(直江)
受領名  山城守


 越後の地にありながら、その武名を天下に鳴り響かせた上杉謙信。 その戦陣には、常に「毘」の軍旗が翻っていた。 謙信の軍旗には、その他にも「龍」「愛」「無」などがあったと伝う。 いずれも一字旗であり、謙信の純粋で力強い気性がうかがえる。

 「毘」の旗は、須弥山を護る四天王の一人にして、北方の守護神・毘沙門天(多聞天)のことで、仏敵を打ち払うこの武神を謙信は自らになぞらえ深く信仰した。 毘沙門天に関しては、この他にも「刀八毘沙門」の旗もあった。 

 「龍」の旗は、懸かり乱れ龍とも呼ばれ、不動明王の意であると言う。 龍は不動明王の化身とも、云われるからであろう。 不動明王が外道との論争の中で剣に化身したが、敵も剣に化身したので、さらに龍(倶利伽羅竜王)に化身して敵を屈服させた、という話からきたことであろう。 つまり、龍は不動明王の最強の化身ということになる。 「龍」の旗の意が不動明王ならば、総攻撃のときに掲げられたという「龍」の旗は、まさに不動明王が龍に化身したが如く、上杉軍が総攻撃において最強になる様を表しているのだろう。 ちなみに、謙信は出陣に際して不動明王をはじめとする五大尊明王に祈祷する五壇護摩を行っていた。

 「愛」の旗は草書で書かれており、その意は、「毘」や「龍」の旗の意味を考えれば愛宕権現あるいは、愛染明王ということになる。 より、謙信に関係深いのは愛宕権現であろう。 謙信の使用した印章に「勝軍地蔵」と、彫られたものがあるが、勝軍地蔵は愛宕権現の本地仏で愛宕将軍地蔵と、記されることもある。 また、上越市にある愛宕神社は謙信が春日山山麓から同地に移したもので、出陣の際には参拝したという。 同神社には、謙信所用の軍配が残されている。 さらに、謙信の印章や兜の前立てに飯縄明神(飯縄権現)を表した物があるが、飯縄明神と愛宕権現は修験道を通じて近しい関係にある。 戦国初期の守護大名で幕府管領だった細川政元は、天皇に対し不遜な態度を取ったり、将軍を傀儡にしたりと、政治的理念は謙信とは正反対の人であったが、宗教に対しては似ているところがあった。 政務を放り出して修験道修行に出ようとして家臣に連れ戻されたり、細川京兆家の当主でありながら呪法を得るために生涯結婚せず子も生さなかった。 この政元が信奉していたのが愛宕権現・飯縄明神であった。 謙信が結婚しなかったのも、この様な理由であったのかもしれない。

 「無」の旗は、若き時代に使用していたと云われ、幼き頃に曹洞宗・林泉寺で修行した禅宗の影響であろう。 「無」の旗は、北条家五代当主・北条氏直、徳川四天王・榊原康政、そして伊達政宗の重臣・片倉景綱や山内一豊など、多くの武将が用いた。


 謙信の兜には旗と対になるような物があった。 上杉家菩提寺の林泉寺には、謙信所用の「毘」の文字を象った前立が残されている。 また、「金箔押唐草透風折烏帽子兜鉢」の唐草文様の中に「無」の文字が配されている。

 「愛」の前立の兜といえば、直江兼続のものが有名だが、謙信が「愛」の旗を使用していたとなれば、この兜は元々は謙信所用であったという可能性もある。 上杉景勝所用と伝わる兜に、日輪に卍を描き猪を配し、摩利支天を表したものがあるが、この兜は製作年から元は謙信所用であったが、後に景勝に譲られたか、謙信の死後、景勝所用となったらしい。 「愛」の兜もまた、元は謙信のもので、謙信から兼続、あるいは謙信の死後、景勝から兼続へ譲られていたとしても、不思議はないだろう。

 「龍」の兜については、確認できない。 謙信の兜に飯縄明神の前立のものがあるが、飯縄明神の本地仏の一つが不動明王であるから、飯縄明神→不動明王→龍と考えられなくもないが、これではこじつけすぎる。 「毘」「無」「愛」が一字旗と同じく文字を象ったものなら「龍」もまた文字を象った物でなくては成らない。 想像、いや妄想をたくましくすれば、「龍」の文字の兜はあった。 その兜は、北条家から養子に入った上杉景虎に譲られ、謙信の死後起こった御館の乱で景虎と共に失われた、となれば浪漫があるのだが。

( 文/葛城涼介)

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